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おでかけの本質 おでかけの本質を端的に突いた批判ログ http //www.logsoku.com/r/tubo/1351419020/390 ※固定ハンドルで荒らしをなす者全員に言えることでもある。 390 :最低人類0号:2012/12/09(日) 18 04 18.97 ID /VqAU+iB0 2ちゃんねるでは、社会的身分、学歴なんて関係ない。 重要なのは2ちゃんねるの掟を守っているか?それだけ。 おでかけ ◆gIPRaH.LO.は「自己顕示」のためだけにスレを利用。 これは2ちゃんねるへの敵対行為であり、叩かれて当然。 2ちゃんねるで「自己顕示」する奴は無能(基地害)。 歪んだ自己愛だけでは、誰もお前の存在なんて認める訳ない。 これを理解できない奴は2ちゃんねるで語る資格はない。
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- 組織って本質的に気持ち説 あらゆる組織はヒト・モノ・カネを持っている。正確に言うと時間も材である。 そして、もっとも根源的な材は、会社で言えば社員のモチベーション、やる気こそが組織の真の姿である。 戻る 会社に限定して考えると単なる理想論のようだが、少しでもプライベートな集合を組織化しようとすると、やる気こそが組織なのだと分かる。メンバーがやる気を失った途端に組織は霧散する。「組織が動かない」と思ったときは「組織が無い」と思ったほうが良い。 コメント 名前 コメント
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コーディング規則の目的 ほとんどのヨーロッパの大聖堂は、いろいろな時代にわたってさまざまな建築家が建てた部分との間に、構想や建築様式の相違がみられる。 後代の建築家は、様式の変更や好みの違いを反映させるため、それ以前の設計を「改良」したいと思うものだ。 だから、穏やかなノルマン建築の外廊が、高くそびえ立つゴシック様式の本堂と隣接し、互いに主張しあっている。 その結果、神への賛美と同じくらいに建築家の奢りを物語ることになる。 これに反し、ランス大聖堂の統合された建築様式は見事な対照を見せている。見るものは、個々の美しさ同様にそのデザインの見事な調和に心を動かされる。 ガイドブックにあるように、この完全さは八世紀にわたる建築家の自己犠牲によって得られたものであり、全体が統一されたデザインになるよう、彼らはそれぞれ自分のアイデアを犠牲にした。 その結果、そこには神への賛美のみならず、堕落した人間を奢りから救出する神の力が示されることになった。 コンセプトデザインの完全性こそ、システムデザインのもっとも重要な考慮点だと言いたい。 ー Frederick Phillips Brooks, Jr. 人月の神話 ザ・ブックからそのまま出てきたような ー ポール・エルデシュ コーディング規則には、次の目的がある。 ✓ コンセプトデザインを統一し、コードを読みやすく美しく仕上げる。 趣味で一人書くコードにコーディング規則は不要だ。自分が正しいと思う方法でコードを書けばいいだろう。 しかし、プロがチームでおこなう開発にはコーディング規則が必要だ。 世の中には正しく美しいスタイルやコンセプトがいくつも存在する。しかし、それらが混在してしまっては、もはや正しくもなければ美しくもない。 コンセプトデザインの完全性こそ、システムデザインのもっとも重要な考慮点だと言いたい。 ✓ コーディング規則によりコードの共有化の基盤をつくる。 Steve McConnell の「CODE COMPLETE」によれば、プログラムを作成するのに必要な時間には人によって10対1の差がでるそうだ。 もちろん、McConnell の主張は「だから優れたプログラマになろう」ということなのだろう。 しかし物事を裏側から眺めれば、たとえ最高のプログラマであっても最低のプログラマの10倍程度の生産性しか出せないことになる。 個の力を高めるのは言うまでもなく重要だ。しかし、一人でできることには限界がある。時間は有限のリソースだ。コードの共有化による集合知の構築を目指そう。 ✓ コードを読むとき、内容・本質に重点を置くことができる。 コーディング規則は、コードの内容・本質については何も語らない。 コードの内容・本質ではなく、コードを書く上で検討が必要になる識別子の命名規則やレイアウト規則、コメントの書き方などディテールを説明する。 こうしたディテールの一つ一つを規則化・パターン化しておくことで、プログラマはコードの内容・本質に集中できるようになる。
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目次 1.科学とは何か 2.未知なるものの発見 3.認識の方法 4.実証の精神 5.科学万能主義の次に来るもの (1988年1月12日の霊示) 1.科学とは何か さて、本章では私の得意の領域でもあります科学の問題ですね、これについて話したいと思います。私自身科学者でもありましたし、さまざまな発明いっぱい致しました。特許も何百も持ってます。みなさん知らないかもしれないけれども特許いっぱいあるんですよ。私の特許なんていっぱいあるんですよ。電気釜じゃないけれども、圧力釜なんて作ったこともあるぐらいで、お釜も作るしねえ、何でも作るんですよ。 特許もまあいっぱい持った特許屋です。電気屋でもあります。コンピュータ系統のね、機械、いろんな機械作リましたし、まあちょっと知られた面もあります。そこそこの業界では、そこそこの人だと言われたことはあるんですね。 で、まあ科学もよく知ってるから、僕自身、生前本書いた時に、『心の発見』なんかで「科学篇」てありますね。ああいう本書いた人はいないと思うんです。宗教と科学をああいうふうに、何て言いますかね、一体化させて説き切った人はいない。残念ながら谷口雅春先生も科学までは行けなかった、ね。私だけです、あそこまで行ったのは。だから仏教の本質と科学の本質というものは、別のものじゃなくて全く同じものである。まあこういうことを私は生前実証したつもりであります。 また、これは一部興味のある人からは大いなる称賛でもって迎えられましたし、まあ読者のみなさんの多くは私が書いた数式なんか見たってさっぱりちんぷんかんぷんですが、ちんぷんかんぷんではあるけども、迷信の領域ではないということだけはおわかりになったであろう。こういうふうに思いますね。 特にやはりね、問題はねえ、霊的な問題、宗数的な問題話す時に、書く時に、どうも抹香臭(まっこうくさ)くなって霊臭くなって、変な感じするんですね。これが一番いけない。だからそうじゃなくてやはり現代人のね、理性に訴えて納得がいくものであるかどうかね。まあこれが大事です。 生前からよく言ってきましたね、私は、本当の正法には文証、理証、現証、この三つが伴うものである。文証っていうのは法でね、文章として書いてそして納得のいくような教えがあることね。理証っていうのはまあ科学的な実証だねえ、まあ科学的実証と言ってもいい。法則性と言ってもいいね。こういう法則性があって論理的につじつまが合っておるようなもの。 たとえば私の教えたように、想念帯というのがあってね、これが一生の思い出、いろんな想念帯の曇りがある。この曇りを反省というものによって晴らすことによって、スモッグが晴れることによって太陽の光が燦燦(さんさん)と降り注ぐ。そのように神の光が射してくる。そういうことも教えましたけども、これなんかもやっぱり科学的な説明であろう、ね。まあ理性的であるし理論的な説明であろう。まあこういうことで理証と言えるでしょう。 あるいは水の転生輪廻(てんしょうりんね)と人間の転生輪廻ね、こういう話も致しました。水の一生っていうのがありますねえ。水の一生で川になって海になって、南氷洋や北氷洋で氷になって、また春になって溶けて水蒸気になって、天に昇って雲になって、また雲が氷の粒になってね、降りて来て雨になって、そして山に降ってね、山から谷に流れ川になって、また海へ還っていく。こういうふうに水も転生輪廻してますけども、まあこうしたものでもって人間の生命の不思議、こういう話もまたさらに致しました。 ま、これ以外にもエネルギーの法則、あるいは力学的法則と正法の話も致しました。作用・反作用の法則ということをだいぶ言いました。カルマの法則とか、あるいは蒔(ま)いた種は刈り取らねばならん、こういう話についてね、作用・反作用の法則、ま、こういうことがあるということを言いました。あるいは、人を呪(のろ)わば穴二つ、こんな話しましたね。 こういうように、まあ科学的と言ってもいいし、あるいは科学的でなくてもいいけれども、話の筋がね、つじつま合って理論的にもすっきりしてる、こういうのを理証って言うんですね。ところが巷(ちまた)の拝屋(おがみや)たち、この理証がないね。「とにかくありがたいんです」なぜありがたいかの説明がない。そうでしょ。とにかくこの曼陀羅(まんだら)はありがたいって、何がありがたいのかわかんない。ね、そうでしょ。なんでありがたいのかわかんない。 「とにかく墓相です。墓の相が悪いんです。これをこう変えればよくなる」「なんで?」って言ったらわかんない。とにかくこの方角はいけないんです。「なんで?」って言ったらそれがわかんない。ね。なんでがない。「理由はない。理由はなくとにかくそうなんだ」こういう決めつけですね、決め込み、あるいは「昔からそう言われておるんだ。そういうお告げがあった」ね。この部分が結局新興宗教のおかしい部分だね。 そういう意味で、現代において神理を説く場合には理証ということは非常に大事です。理論的に整合性があって、万人の納得がいくような法則性、あるいは考えが入っておることね。これ大事です。この理証の部分はいくらやってもやり過ぎることはありません。 それから現象ですね。ま、現象はまあ碓かに他の宗教一般につきものでしょう。霊的な現象が起きることですね。これも大事です。まあ私が今、これ霊言という形で送ってますし、生前は霊道現象もだいぶやりました。〇〇さんはあんまりやらないけども、まあやらない理由は体力消耗して損だからね。あんなのやったって、ねえ、本にもならないしねえ。「おい、キツネ、ちょっと出て来い」なんてやったってきりないから、高橋信次やったからもういいだろうっていうんで、自分は自分で読みごたえのある本、高級霊シリーズでやってるね。 まあそら確かにそうだ。悪霊やったってそんな繰り返し読めないわ。高級霊なら何回でも読める、ね。そういうとこでいいし、読めば賢くなる。勉強になって天国に近づいていく。だからいいんだよね。だからそういう意味で現象をやっておる。 文証・理証・現証、この三つね、大事ですよ。拝屋だけやってて本も書けないような人ね、こんなもの真の正法とは言えない。だから現象も出せるけど、それの理論的な説明もあるし、それから書いたものとして立派な文献、経文、教典、これがある。ね、この三つが大事です。 そして、その中には科学の精神が流れておるということですね。科学する精神、科学する精神というのは結局ね、科学の精神というのは、結局、論理的な整合性だと私は思うんですね。つじつまのある説明、Aという人はそれはそうだと言うけどBが違うというような、そんなことであったら科学は成り立たないんですね。Aが見てもそう思うし、Bが見てもそう思う。Cが見てもそう思う。こういう筋道立った考え方ができて初めて科学は成立するんです。 Aという人が見ただけで月が存在して、Bが見たら月がないというような、こんなのでは科学とは言えないね。天文学とは言えない。試験管振って、そういう結果が出るのは、AがやってもBがやっても同じなら化学の世界ではそれでいいということになる、ね。物理学の法則も、Aという人が実験したらそうなって、Bがしたらそうならないというのなら、こんなの法則とは言えない。 こういうことで、科学というのは客観的な説明、あるいは論理的整合性、これを大事にするんですね。これをある程度ね、現在は神理の世界に持ち込まないといけない。こういうように私は思います。その意味で科学の本質ですね、これを充分に使っていく必要がある。その考え方は現代に生きる考えであるし、今後の宗教の行くべき道筋でもある。このように私は言えると思います。 2.未知なるものの発見 ですから結局、科学っていうものは何かって言うと、まあ論理的整合性っていうことを今、言いましたけども、ま、それだけじゃないね。論理的に整合性があるだけであったらそれは論理学であって、科学とは言わない、ね。論理学は、AはBである、BはCである、したがってAはCである、ね。こういうことでやりますねえ。 たとえば、人間は動物である。動物は生き物である。したがって人間は生き物である。ま、こういうことをやりますね。こんなことを論理学でやってますが、これ自身は科学とは言わない。これは理論的な整合性はあるし論理性があるけれども、科学とは言わない。なんでかって言ったら目的がないからね。目的が違う。こういう文章的なこういう整合性を言っておるんじゃない。 科学の目的というのは何かって言うと、結局未知なるものの発見ですね。これが科学なんですよ。科学はこれなんです。未知なるものの発見です、ね。これなくしての科学はないんです。未知なるものを常に発見しようという態度。現状にあるものそのままでは何も意味ないんだ、ね。動物の観察してる人でも、未知なるものを何か発見しようとしている。野性の動物の生態、これを発見しようとしたり、天然記念物の生態、発見しようとしたりする。ムササビがなぜ空飛ぶのか。不思議だ。こんなのを発見しようとする、ね。 猫はなぜ昼寝をするのか。不思議である。猫の昼寝と人間の主婦の昼寝はどこに共通性があるんだろうか。主婦も昼寝をしたがる。男性は昼寝をしない。主婦は昼寝をする。ねえ。描も昼寝をする。そうすると、女性と描というのは共通性があるんではないか。うん、そう言えばそんな気がする。ねえ、こういうことを考えますねえ。これが未知なるものの発見ですね。これは科学への道のひとつであります。 こういうふうにね、結局、未知なるものの発見というのが科学の根本精神にあるんですね。だから未知なるものを発見しようとして、そしてそれについて論理的な説明ができるかどうか。これが科学の領域であろうと思いますね。この考え方は今後大いに取り入れていかねばならん。 そういう意味であなた方が目指すものもね、単なる宗教でもないし、宗教学でもない。宗教科学と言ってもいい。あるいは魂の科学であろうし、あるいは精神の科学であろうし、神の科学であろう。こういうふうに言えますね。宗教科学ですね。こういうものであろう。まあ宗教科学と言うとちょっと宗教の部分だけ抹香臭(まっこうくさ)い。だからまあ幸福科学、結構でございます。 だから幸福を科学する方法、じゃあ幸福を科学するとは何か。幸福という領域の中にある未知なるものを発見し、ね、今まで人が発見しなかったようなもの、あるいは人が忘れておったもの、こういうものを掘り起こしてこれに光をあて、そしてそれに対して万人が納得するような説明をつけること。理証の部分ですね。これをピシッとやっていくことね。これが第一であります。 まあ、だから高橋信次の霊訓なんていっぱい出してるけども、こんなのいくらでも出せるから、これが本人の証明だね。はっきり言って。別に僕の顔を知ってる人にいちいち確認取ってもらう必要ないんだ。そんなの彼らだって確認したって僕の顔なんか見えやしないからね、姿見えないからしようがないけど、霊訓、霊言集ね、これ何冊でも出せるでしょ。僕は五十冊でも百冊でも絶対出しますからね。出せるんだから。それじゃ高橋信次の名前で、思想で、性格で、百冊作れる人がおるかおらんかだ、ね。生きてる人で書ける人いるか。いないよ。僕の弟子だって書けやしない、ね。書ける人いないよ。弟子でも書けないんだ。ましてあの世の霊でね、勉強もしとらん人に書けるわけがない。書けるっていうのは同じ個性で、同じ思想で、同じ性格で、書けるというのは、これは本人の証明です、ね。 これしゃべってる今日は一九八八年の一月の、今日何日かね、十二日の火曜日です。みなさんね。私の目の前に毎日新聞があります。毎日新聞の第一面で、八つ切りで土屋書店さんが『高橋信次の天国と地獄』という広告出してます。「愛に悩む現代人へ」ね、こういうふうに副題がついて、横に小さく『高橋信次の新復活』の広告が並べてあります。ね。 みなさんこの『高橋信次の天国と地獄』っていうの出ましたけど、この「愛に悩む現代人へ」ね、これ、僕が考えたんじゃないんだよ。土屋書店さんから「高橋先生に愛について語ってもらって下さい。現代人に向けてね。やっぱり愛の悩みが多いから、愛について語っていただけませんか」って、向こうからリクエスト来たんです、ね。「よし、答えましょう。愛について答えましょう」ってね、答えたんです、ね。これが本になったわけです。だからこの世とあの世でやり取りちゃんとしてるんですよ。みなさんね、笑っちゃいけないよ。ほんとなんだから。ねえ。僕が勝手にやってるだけじゃないんだよ。この世の人からのリクエスト受けて答えてるんですよ。僕は人生相談であろうが何であろうができるんだ。ちゃんとできるんだ。だからこのへんが証明だな。繰り返し何回でもできる。新しいものでもできる。こういうものがあります。 3.認識の方法 さて、科学について一連の話をしておるんですね。宗教と思想と哲学、これに関係する話として科学の方法論、これを考えております。そこで認識の方法ということをちょっと考えてみたいんですね。じゃあ客観性と言われるものは一体何なんだろうかと、ね。事実、真実と認められるその認識の仕方ですね。これは何だろうか。ま、こういうことを考えたいですね。 科学でよく実験室でね、何人(なんぴと)がやっても同じ結果が出ることがその理論が正しいことの証明と、まあ言われますね。けどもまあ、そういう実験結果でノーベル賞なんか出るんでしょ。きっとね、そうだと思う。ただ、一般の人が、じゃあ試験管振ってやっとるかといえばやりゃしないね。できないね。それなりの実験材料と実験装置、それと実験室、ね。それだけのスタッフがいなきゃあできないね。けど、そういう人がほんといたら、多分できるであろうということをみんなが信じているということだな。これで納得しておるわけだ。実際にねえ。 たとえば、ま、最近も利根川さんなんていうのがノーベル賞とったけども、日本人で初めてのノーベル賞って言えば湯川秀樹だよな。もう私たちの世界にも還って来てます。菩薩界に還ってますね、湯川秀樹さんていうのは。まだちょ心と霊言送るような、そこまで思想が進んでないけども、多少は宗数的なものの考えもできた方であると思いますね。ま、将来霊言なんかも出せるかもしれない。宗数的なものの考えのできる人でありましたが、彼のノーベル賞受賞作というかね、受賞において大切になった中間子の理論なんてあるけれども、中間子の理論なんていうのは、こんなのみんな別に自分の目で見たわけじゃない、そんなのね。中間子なんかあるなんて、こんなの話だけで聞いてる。 その中間子の理論を湯川博士が思いついたのは、ねえ、夜ベッドの中で奥さんと、ねえ、なんかいいことしようとした時思いついたとか、あるいはバスの中で揺られて思いついたとか、居眠りしとってね、バスの中で居眠りしとって思いついたとか、いろいろ諸説紛紛(ふんぶん)あるんだけども、いずれにしてもなんかぼんやりしとる時に思いついたと、まあこういうふうに言われてますね。 あるいは数学者で岡潔(おかきよし)さんていう方ね、この方も近年亡くなりました。京都の方(ほう)で、奈良だったかな、まあ数学者で、世界的な数学者のひとりであったけども、非常に仏教の理解が深かった方ですね。こういう方なんかも結構いい世界に還って来てます。また霊言なんかも出せるかもしれないけどね、科学者シリーズでね。湯川秀樹、岡潔、まあこういった人も出せるかもわからんけど、ま、彼らなんかも数学の証明やっておったけど、その数学の証明のやっておる過程でね、やはり天上界から啓示を受けながらやっておって、パッと思いつくという、まあこういうことをいろいろやってたね。そういう認識の方法論があったように思います。 結局ねえ、科学、科学と言いながら、その中核部、あるいは最先端の部分を見てみると、非常に霊的世界との関連があるんですね。湯川博士がふとんの中か、あるいはバスの中か知らんけれども、中間子理論を思いついたっていうのも、夢の中でね、思いついたっていうけども、結局は霊的世界からの啓示です、ね。湯川博士に啓示を与えた人がおるんですね、科学者の中から。科学者の魂でそういうもの教えた人がおるんです、ちゃーんとね。いるんですよ。みなさんね、ちゃんといるんです。それはいるんです。 それからその数学者の岡潔さんなんかに啓示を与えておる人もいたんですねー、霊的世界の中から。数学の証明について。あの世でも数学の研究してる学者もおるんですよ。たとえばパスカルなんていう人なんかもまだ、文学者でもあり哲学者でもあったけど、数学なんかもやってるんですよ。こういう人もいるし、ニュートンなんか、あなた、黙って寝てると思いますか。やってますよ何かね。ちゃんとやってる。だからみんなやってるんですよ。 だから科学の最先端はね、非常に霊的世界と関連が深いんですね。これは知っといてほしい。僕はそう思いますね。だからね、認識の方法としてね、一応、科学は誰がやっても、何と言うか納得がいくなんて言うけども、実際みんなそれやってもしないのに信じてるね。で、やってもしないのに信じてる人のやリ方見たら、それ自身非常に霊的なそういうひらめきでもって、理論を創っておることが多いということですね。まあ、こういうことがあります。 4.実証の精神 まあここで、でも大事なのはね、実証の精神だと思うんですね。実証っていうのは、現にこう証(あかし)を立てるっていうことですね。現にそうだということ、この部分が理論、理論が単なる理論じゃなくて、実際、価値がある、力がある、値打ちがある、と言いえる面ですね。この実証の精神があるかどうか。 理論は必ずしもそれは証明ができなければいかんというもんではない。理論は先に走るでしょう。特に物理学の領域とかそういうところでは、理論があってあと現実がついていきます。理論を考えついて、そういう現実があるんではないか。あるいは現実の断片を何か見てね、それについて理論を創る。ま、こういうことがいろいろありますね。 それで、今、宇宙科学の方面ではね、太陽系に、惑星は九つあると言われてるけども、第十惑星があるんじゃないか。十番目の惑星があるんじゃないか。こういう研究がされとるようです。今世紀に入ってね。まあ、冥王星(めいおうせい)かなんだかが発見されたのが千九百年代の前半です、ね。なかなか発見されなかった。まだこれからも未知なる天体があるんじゃないか。それで、第十番目の惑星、ね、こういうのがほんとにあるんじゃないか、というのが仮説で立てられています。 実際にね、第十惑星があるんです。これは、太陽の周り回っておるんです。ところがね、非常に何て言いますかね、発見は難しいんですね。地球から見た角度で、発見が非常に難しい位置におるんですね。この第十番目の惑星があるんです。これはおそらく私の予言ではね、今世紀中に発見されるでしょう。十番目、第十惑星の存在、これは発見されると思います。 ま、これについてはまた話、別な時にしてもいいですが、まだ発見されてない十番目の惑星があるんです、太陽系にはね。ちょうど地球から見て太陽の裏側の方にあるんです。だからわからないんです、なかなか。これはやがて発見されるでしょう。 ま、こういうのをね、ただ理論としてね、いろんな宇宙の観察しておって、星と星との動き方とかね、いろんな摂動(せつどう)って言ってね、摂理の摂、動(どう)は動くと書きますが、星の摂動とかこういうもの見ておって、そのすれとかね、いろんなの計算すると何かこういうものがあると説明がつく。なんかそういう惑星があるとこの意味があるとかね、こういう計算が立つんですね。こういう仮説立てるんですね。仮説を立てて何十年もして発見される。ま、こういうことがあります。 十惑星、第十番目の惑星も、今世紀中におそらく私は発見されると思いますけどね、これを言っておきましょう。ただ詳しい予言はあまり私はしません。なぜ、みなさんしないかわかりますか。それは、土屋書店さんのシリーズで『高橋信次の大予言』ていう本がでるんですね。だからあまり予言を本書でするとね、いけないんですね。予言はそっちに持っていくことになってるんで、それ買ってもらわなきゃいけないんで、これはちょっと予告にね、止(とど)めておきたい。まあこういうふうに思いますね。 。 今後いろんなものが発見されていきますが、それについて何かいつ頃発見されるか、このリストはすべて私の手の中(うち)にあるんです、本当はね。この手の中にあるんです。これを僕が読み上げたら、パラパラツと読み上げたら出てくるんですね。そうなんですよ。ただ時どき意地悪する人がいて、じゃあ、あいつが発表したんで、じゃあ違うようにしてやろう、なんていうのが、こんなのがまあ、あの世にもたまにおるんでね。まあだから難しい部分があるんだけども、自由意志があるからね。自由意志があるけど、だいたいどんなのが出てくるかはわかるんですね。 ただみんなね、実証の精神大事です、実際にそうであるかどうか。そういう新しい天体を見つけるっていう、こういうこと大事ですが、その前に理論があったということを忘れちゃいけない。あるかもしれないという仮説だね。理科系統では仮説というものを大事にしますね、仮の説。 実際、たとえば原子だとかね、分子だとか言うけど、あんなのみんな見たことないでしょ。ねえ、原子なんか見たことあるか、ね。素粒子なんか見たことないじゃないか、ね。しかし、こういうのは理論的に仮説立てて、原子があるとかね、言った人がいたわけだ。何十年か何百年か前にね、それで追究していったらやっぱりそれが説明がつく、ね。こういうことになったわけだ。原子というそういう固有の存在があるか、あるいは物質のその構成はエネルギー波に過ぎないのかね。物質エネルギー説、あるいはそういう素粒子説、いろいろあるんだよ。まあ、こんなのみんな仮説だね。 まず仮説があって、あと実証が続いていく。で、仮説が立つ理由は何かって言うと、これは天才、あるいはそういう優れた人たちの研究の結果、湧いてくるインスピレーションだね。ここだ。結局ね、科学的な実証精神と言っても、根本は霊的世界からの啓示があって、あるいは直観、ひらめきというのがあって、それをやがて説明をつけていく歴史であるということだね。 だから理科系統の学問でも仮説があるんだから、みなさんね、宗教や哲学や思想だって言っても、ここで仮説があっておかしくない。だからね、認められないからといって言っちゃいけないっていうのはこんなの問題ですよ。仮説を立てるわけだ、どんどん仮説立てればいい、ね。そしてそれをやがて時間かけて説明していく。こういうことでいいんだと私は思います、ね。 だから、これから霊言集なんか読む世の人たちがね、「そんなの認められない。インチキだ。ウソだー」なんて言う人もいるかもしれないけど、理科系統だってそうなんだから、仮説立てて、それ説明するのに何十年もかけてやるんだから、決して気にしないでいいよ。そんなの気にしなくていい、ね。だからまず、そういう理論が先行するんだからね。まあそういうように思って下さい。ただそれをやがて説明つけようという考え方、精神だけが大事ですね。この実証の精神だけは忘れてはならん。私はそう思います。 5.科学万能主義の次に来るもの さて、本章の最後を話をまとめるにあたってね、十九世紀、二十世紀というのは、科学万能の時代と言われました。科学万能そのもの、科学そのものはね、来世紀も続いていくでしょう。おそらくね。ただ、科学はね、今後大きく変わっていきます。今、時代の最先端に科学はあるように言われてるけれども、来世紀以降は、科学というものは、奉仕するものという考え方が強くなってきます。何に奉仕するか。人類の幸福に奉仕するものである。こういう考えですね。これが非常にはっきりしてきます。 科学があって、そしてそれがその結果によって人類が幸福になったり不幸になったりするというような、こうぃう結果論としての幸福論が今世紀はあったと思いますね。科学が発達して、その結果論として幸福になったり不幸になったりする。ダイナマイトが発明されて、結果論としてそれが幸福になったり不幸になったりする、ね。飛行機が発明されて、結果論としてそれが便利になるけど戦争が起きたりする、ね。こういうようになりますね。水爆が発明されて、結果論として人類が死ぬ。こういうことになりますね。 ま、そういうように、まず科学が先行して、そのあと現象の世界で善悪が出てくる。こういうパターンが多かったと思います。 それは科学する人、科学者の中に、そうした理想論、あるいは正法の精神がないからです。やっとる人たちが、現実そのもの、あるいは実験そのものに取り組んでおって、その方向性についてのコントロールができておらんかったからです。これへの反省が今世紀の末を境に出てくるでしょう、非常に。 過日、チェルノブイリですか、ソ連の原発事故がありましたけども、こうしたことが今後数多く起こっていくでしょう。そして、科学、無軌道の科学ね、これに対する反省が非常に生まれてきます。そして、幸福に奉仕するための科学という観点がね、非常に強くなってきます。科学そのものには値打ちがない。科学はあくまでも補助者であり、奉仕するものである。だから何に奉仕する科学であるかということが、一番大事である、ね。人類の幸福増進、あるいはこれから神に対する科学、ね、こういう何々に対する科学という考え方、ナンバー2としての科学、そういう意味合いが非常に強くなってくると思いますね。 だから、今後は、今、宗教と言われているものの中に科学的精神がいっぱい入って来ます。神の科学であり、人類幸福のための科学ですね。そういうのが非常に強くなります。アメリカとかヨーロッパでは、精神医学という形で、本来宗教が持つべき使命の部分を精神医学というものが大部になうようになりましたけども、まあ精神医学でなくても今度、別な科学で、方法で、科学的宗教、あるいは神の解明、霊の解明、こういうのが出て来ると思いますね。 だから科学万能主義の次に来るものとしてね、奉仕のための科学、まあそうぃう幸福のための科学、方法論としての科学、目的としてではなく、方法論としての科学が来ると、ま、これを予言することができますね。そういう話をして、本章は終えると致しましょう。
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設問1 1つのさいころを10回投げる試行において、出た目がすべて奇数で、かつ1の目がちょうどn回(0≦n≦10)出る確率をPnとする。 (1)Pnをnの式で表せ。 (2)Pnが最大となるnの値を求めよ。 設問2 赤、青、黄、白の4種類のカードがn枚ずつあり、各色とも1からn(n≧4)までの番号が付けられている。この中から同時に4枚のカードを抜き取るとき、4枚とも同じ色である確率をPn、4枚のカードの番号が全部異なっていて続いている確率をQnとする。このときPn<Qnとなる最大のnを求めよ。 設問3 均質な材質でできた直方体の各面に1から6までの数を1つずつ書いてさいころの代わりにする(1の反対側が6とは限らない)。ある数の出る確率が1/9であり、別のある数が出る確率が1/4であるとする。更に、出る目の数の期待値が3であるとする。3の書かれている面の反対側の面に書かれている数は何か。 設問4 コインを繰り返し投げ、3回連続表が出たら終了するゲームをする。11回目に終了するような表と裏の出方は何通りか。 設問5 二項定理 n、rは整数で、0≦r≦4とするときn⁵を5で割った余りがrならば、nを5で割った余りもrであることを示せ。ただし、二項定理(a+b)⁵=a⁵+5a⁴b+10a³b²+10a²b³+5ab⁴+b⁵を利用せよ。 解説4 表=●、裏=○とします。 11回のうちラストは「○●●●」で確定ですから、7回目までを考えます。 ここで、「3回表が連続したらゲームを終える」というルールを一旦除外して、7個のマスに「表」と「裏」を配置していくことをイメージします。 全通りとっても2の7乗で128通りで、そこから【「少なくとも」「●●●」が入っているもの】(*)を引けば答えになります。 (*)に関しては、 一見、 「●●●」の配置が5通りで、それぞれにおいて残りの4マスの出方が2の4乗で16通りなので、5×16=80通りなのかな、と思ってしまいますが、 これでは7回全部表の場合を5回カウントしていたりと、だぶりがあるのでこの戦略は不適切です。 そこで、「●●●」の外側のコマの埋め方について着眼してみます。 例えば、「●●●●●」を埋めたとき、 ●●●●●○□ ○●●●●●○ □○●●●●● このようになり、「どちらが入ってもいいマス=□」の表れ方は圧倒的に限られているはずですから、これを考えていけばいいでしょう。 一番少ない「●●●」を左に詰めて埋めても ●●●○□□□ となりますから、□は最大3つ。3つ→2つ→1つの順に考えていきます。 □が3つ; ① ●●●○□□□ ×2 □が2つ; ②A ●●●●○□□ ×2 ②B ○●●●○□□ ×2 ③ □○●●●○□ ×1 □が1つ ④A ●●●●●○□ ×2 ④B ○●●●●○□ ×2 ③だけは左右対称であり、左右反転しても●と○の位置が変わらないので「×1」と書きました。 ですが、①②④は左右反転したら●と○の位置が変わり、別パターンが生じるので、あとで2倍するのを忘れないようにという意味で「×2」と書いておきました。 ですが、①に関しては、□が3つとも表だった場合、すなわち ●●●○●●● の場合、反転しても同じなので、だぶることを忘れないでおきます。(★) よって、 ① □が2の3乗×2=2の4乗=16 ② □が2の2乗×ABの2通り×2=2の4乗=16 ③ □が2の2乗×1=2の2乗=4 ④ □が2の1乗×ABの2通り×2=2の3乗=8 となり、合計44ですが、(★)を考慮して、 44-1=43。 ここに、□がないパターン、すなわち ●●●●●●● ○●●●●●● ●●●●●●○ ○●●●●●○ の4通りを足すと、47通り。これが(*)です。 よって、128-47=81通りとなります。
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メフィドロスは、自分の内にあるすべての生命を求める。 ねじ曲げられぬものは吸収されるだけ。 Mephidross claims all life within it. What cannot be twisted is absorbed. ダークスティール エルフの言うことは正しい。死は結局生へとつながっていく。しかし、真の強さはその周期を理解することではない。 それを支配することだ。 ――隆盛なるエヴィンカー、クロウヴァクス "The elves are right Death inevitably leads to life. But the truly powerful don t just experience this cycle. They control it." ――Crovax, ascendant evincar 第10版 「生命の本質は、死すべき者として生きていた時に味わったどんなものも超越した聖蜜だ。」 ――死者の王、ザル・アシュール "Life s essence is a nectar unlike any I tasted when I lived as a mortal." ――Zul Ashur, lich lord 基本セット2013 【M TG Wiki】 名前
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第282話:矛盾の中の本質 作:◆WqFkbhvlZA 坂井悠二は次に進む場所を考える。シャナを探すため、そして物語を伝えるため。 「そうなると人が多く集まりそうな場所に行くべきだよな」 僕はMAPを取り出し、現在の位置を確認。禁止エリア化予定地ではないことを確認し周囲を確認する。 「一番目立つのはあの城なんだけど……あそこは危ないんだよな。 それに、僕の力は制限されててほとんど存在の力を認識できないみたいだしな」 さっきまで追って来た化け物や助けてくれた人。 その全ての存在をほとんど察知できず、また詳細も掴めなかった。 これは間違いなく僕の力が制限されている。……いや、むしろ封印と言ったほうが近いのだろうか。 「そういえば長門さんも機能が制限されているとか言ってたな」 力の制限……これはどういうことだろうか。 管理者側による殺し合いをさせやすくするための制限? いや、それなら僕の力は存在を察知するだけの能力。ここまで強く制限する理由にはならない。 そうなると…… 「管理者は力の制限を無差別にやっている。 呪いの刻印とは関係なくこの空間全体で制限を掛けているということかな」 そう呟き、しかし疑問がよぎる。 この空間に制限が掛けられているとすると、管理者が僕の前からすぐに消えることができる理由が分からなくなる。 もちろん管理者達が例外的に制限を受けない可能性もあるが、 「いや、それも無いか。制限されたこの空間ですらあんな化け物が沢山いるのに、 誤作動を起こしそうな例外を作るとは考えにくい」 そうなると、やはり制限は個別に掛けられていることになる。 そして、僕の力がこれだけ徹底的に制限されている理由として考えられるのは、 管理者にとって僕の力が危険な物であるということが考えられる。 なぜ僕の力が管理者にとって危険なのか……いや、僕の力ではなく零時迷子の力が危険なのか? 零時迷子は根源的には事象に干渉する宝具……使い手によってはこの空間を塗り替えることも可能なのかもしれない。 「そういえば……城が危険と言ったのは管理者だったよな」 おかしい。殺し合いをさせるために集めたのになぜ逃げろと言ったのか。 本来その言葉は管理者側にとってはありえないはず。 それは矛盾した行動。この矛盾する事柄に何か繋がりがあるのか? 「ひとつは、城の中が危険ではなかった可能性」 あそこは本当は危険ではなく、僕達を動かさせるために言った言葉。 「……いや、外に出て分かったけど、あそこまで目立つ場所、このゲームに乗った人も集まるはず。 むしろ気づかずにあそこにいた方が危険だった」 では、他に理由があるとすれば、 「あの時、あの場所で僕が死ぬことは管理者に不都合だった可能性」 僕があそこで死ぬのは管理者にとって不味いことだった。 何故か。なぜあそこで僕が死ぬことが不都合なのか。 ……何が管理者にとって困ることか。まずはそこから考えるべきだ。いやその答えは簡単だ。 管理者にとって最も困ることは呪いの刻印をはずし、この世界から脱出すること。 「脱出……僕が死んだ場合、そこには零時迷子が残り、それがあの城だったら必ず誰かが拾うことになる。 もし零時迷子を誰かが拾った場合はどうなる? それがもし長門さんだった場合は?」 彼女は自身の力で周囲の空間を作り変えていた。もしそこに僕の零時迷子があったらどうなる? ……おそらく彼女はこの空間の事象にさらに深く干渉できるようになる。 そしてもうひとつ。僕の零時迷子は支給品ではなく、僕の中に存在するもの。 取り出すことはできず、しかし呪いの刻印を破る可能性はあるから、厳重に制限を行った。 僕みたいに世界自体に影響を与えるものには、特に強い制限が掛けられているのだろう。 ……個別に制限が掛けられているとしたら、その制限の原因は呪いの刻印である可能性が高い。 そして、呪いの刻印は僕という存在に対し刻まれている。つまり僕が消えれば零時迷子に対する制限が消える。 僕が消え零時迷子が他の人に渡れば、事象に干渉し、この空間を、呪いの刻印を破る可能性が高まる。 問題は、僕が零時迷子を蔵している限りなされないということか…… だからこそ管理者はあの場所で僕が消えることを良しとしなかった。 ……全部僕の推論に過ぎない。本当は、この空間全体に制限が掛かっているだけかもしれない。 零時迷子にそれだけの力は無いかもしれない。それでも、物語を広める前に僕が消えた場合のことも考える必要がある。 今できることはすべてやる。そうしなければ帰ることはできない。 僕はMAPの裏に力の制限に対する推論を、零時迷子のことを、そしてシャナのことを書いていく。 これで僕が消えても、他の人が零時迷子の力を知る可能性は高くなる。 全てはシャナを守るため。僕が消えた後もシャナが生きられるようにするため。 一通り作業が終わった後、もう一度MAPを見る。すでに疲労は取れていた。 「まずは北上しよう。城以外にも人が集まる場所があるかもしれない」 ―――そして坂井悠二は北の森に踏み込む。 【D-5/森/1日目・10:00】 【残り85人】 【坂井悠二】 [状態]:疲労は回復・感染(魔女の血の入った水を飲む、水はボトルに半分残っている) [装備]:狙撃銃PSG-1 [道具]:デイパック(缶詰の食料、IAI製)、地下水脈の地図 (かなり劣化) [思考]:1.シャナ、長門の捜索。2.出来るだけこの物語を多くの人に知らせる [備考]:悠二のMAP裏に零時迷子のこと及び力の制限に対する推論が書いてあります。 ただし制限の推論が正しいかは不明です。 缶詰の中身、物語・感染の詳細は後の人に任せます。 ←BACK 目次へ(詳細版) NEXT→ 第281話 第282話 第283話 第277話 時系列順 第306話 第275話 坂井悠二 第330話
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目次 1.科学の存在意義 2.幸福を地上に具体化する手段としての科学 3.科学本来の使命 ― 神の創られた世界を証拠だてること 4.科学と宗教の対立を超えて 5.今後、神の創られた多次元世界の究明に向かう科学 (一九八九年一月二日の霊示) 1.科学の存在意義 アイザック・ニュートンです。このたび、私の霊示集を世に問う運びとなりました。 私が、イギリスの著名な科学者であったことは、読者のみなさまもご存じのことでしょう。私は、近代科学の祖としてイギリスに生まれ、数々の科学的業績をあげ、まさしく近代の火ぶたを切ったのです。 私の使命は、ひじょうに多岐にわたっておりますが、主として科学という光線、神の七色光線のなかの銀色の光線を担当しております。 この銀色の光線の構成員としては、私であるとか、エジソンであるとか、アインシュタインであるとか、ボーアであるとか、マックスウェルであるとか、ノーベルであるとか、このような科学的業績をあげた者たちが集っています。 現文明においては、特に近代で活躍いたしましたが、過去の文明においては、何度も何度も科学の時代はあって、そういう時代には、私たちはその文明独自の技術を高めるために、活躍をしていたのです。 今、人類は一つの大きな岐路に立っていると言えましょう。ここ、四百年ほどの間に急発展した科学技術が、人類の前途を幸福にするか、不幸にするか、そのどちらかを決めるような、そのような瀬戸際に人類を追い込んでいると言えると思います。人類は、その事実になかば気づき、なかば気づいておりません。気づいているというのは、たとえば戦争の面では気づいていると言えましょう。もし、巨大大国が本気で戦わば、いったいどのようになるか、これがわかりかねていますが、ただ決定的な事態となったときには、もはや地球的惨状となると言えるでしょう。 もう一つ、人類は科学の未来についてわかっていないと思われる点は、これは未来の見取り図です。未来の見取り図が十分にわかっていない。二十一世紀に、また、二十五世紀に、三十世紀に、人類がどのような科学技術水準に達して、そしてどのような生き方をしているであろうか、ということが十分にわかっていないのです。 科学というものは上手に使いこなせば、これ以上人類に福音をもたらすものはありません。それは、ある種の哲学や宗教以上に人類を幸福に導くものであります。 宗教では心の世界が数多く説かれてきたでしょう。そして、人間の幸・不幸は思いのままであり、また思いのなかに人生の幸・不幸を分ける要素がある。そのように言われているはずです。確かにそれはそれで、一つの真実ではありましょう。ただ、科学はこうした偶然性や蓋然(がいぜん)性によって幸・不幸が左右されることを極力滅らし、思いの意によってという主観的基準ではなくて、現実の力として、客観的事実として、だれもが体験できるものとしての幸福というものを生み出していると思えるのです。 この事実に関しては、深く認めなければならないと思います。たとえば、漁船が漁に出たとして、魚が獲れるかどうかは、神の恩賜によると考える方もいるでしょう。豊漁であれば、神のお恵みがあったと考え、不漁であれば、神の厳しい裁きがあったと考える方もいるでしょう。しかし、漁船が発達し、漁網が発達し、漁法が発達し、レーダーが発達し、いろいろな抜術がレベルアップした結果、漁師は、天候やあるいは神のご機嫌によって漁が左右されるのではなく、技術的に一定の収穫を確保できるようになってきました。 これは、とても大きなことではないかと思います。今まで幸・不幸を決する超越的存在がはるかなる彼方にあって、人間をどうするかはその存在の意図次第であったと思われていたことが、人間の努力によって掌中に招き寄せることができるようになったということです。 漁師の漁でもそうですし、病気も同じでしょう。ある種の宗教的行為によって、病気が治るということもありますが、それはあくまでも個人個人に備わった特殊能力によるものであり、そのための限界があります。しかし、医学によって、どれだけ多くの命が現実的に救われているか、これは宗教によって治る病人の数をはるかに上回っていると思います。 また、機械の進歩もそうです。かつては何週間も徒歩で行かなければならなかった距離が、電車によって、飛行機によって、ひじょうに時間が短縮された結果、人類はより行動半径を広くし、より活動の中身を濃くすることが可能となってきたのです。 たとえば、音楽の設備でもそうでしょう。家庭で、すばらしい音楽を楽しめるようになったということは、一部貴族だけに許された演奏会の楽しみを、個人レベルに降ろしてきたということになるでしょう。幸福が手近なところにやってきたと言えるでしょう。 また、電気が開発されていなかったときには、夜というものは寝る以外に手がなかったのに、電気の発明によって電燈が灯り、夜でも仕事ができ、読書ができ、家族の団欒を持てるようになった。これはまことに幸福なことであろうと思います。 科学のいちばんの恩恵は、それらのなかでいったい何であるかというと、やはり交通機関の発達だと言えるのではないでしょうか。飛行機、船、汽車、こうしたものの発達は、地球を小さくし、人びとの視野を大きくしました。また、ロケットの発明は、人類をして宇宙に行かしめ、宇宙の視点で地球の生活を見ることを可能といたしました。 2.幸福を地上に具体化する手段としての科学 こうしてみると、従来、神秘的に信仰の対象とされていたもののベールが、一枚一枚はがされてきたことは事実であります。しかし私は、従来の科学観、また今、私自身が述べた科学観も同じでしょうが、こうした科学観でもって、必ずしも宗教の世界、霊の世界を批判・批評しようと考えているわけではありません。 それというのも、私自身がすでに霊となって存在しているからであります。そうして、私が住んでいるこの実在世界においては、科学はもはや何の役割をも果たしえなくなっております。地上において発明・発見された多くのものごとは、私たちの霊の世界においては、ほとんど無用のものとなってしまいました。高等数学もこちらの世界では不要です。物理学も不要、天文学も不要、機械も不要です。そのようなものが必要であったのは、地上という有限の世界において、肉体を持った人間という有限のキャパシティーを持ったものが生きるがゆえに必要であったのです。 私は、今、こちらに還ってさまざまな物事に思いを巡らしておりますが、しかし、これだけははっきりとしておかなければならないと思うことがあるのです。それは、科学とは、幸福の具体化のために役に立つことではあるが、幸福そのものではないということなのです。あくまでも、地上に生きている人間を、哀れと思ってそうした手段が許されていると考えたらよいでしょう。 本来、暖かい世界に住んでいる人間にとっては、犬ゾリは不要です。しかし、今、現時点において、雪の世界に生きている人たちにとっては、犬ゾリは必要でしょう。霊の世界とはこの比喩で言うならば、暖かい世界、常夏(とこなつ)の世界であり、そうして地上の世界というものは、犬ゾリを必要とする世界であるということなのです。 私は、ここで現代の科学者たちにどうしても言っておきたいことがあるのです。私やあるいはデカルト、カント、こうした学者が近代の合理主義をつくり出したかもしれませんが、その合理主義には裏の面があって、真実の世界観をくもらせた点があることは、否めないと思うのです。私たちは、幸福のための手段を幸福の目的そのものと履(は)き違えてはならないということなのです。 地上のあなたがたは大気圏から脱出し、宇宙船によって地球のまわりを回ってみることは可能でしょうが、すでに霊となった私には宇宙船は必要ではなく、念(おも)いによって地上を見下ろすことが可能ですし、他の星に飛行することも可能ですし、念いによって過去を見、未来を見ることも可能です。 私が地上にあったときに、あれほどまでに発明に、発見に、創造に明け暮れ、それを焦っていた理由は、こうした実在世界の記憶があって、その記憶に基づいて、何とかそれに近づいたものを、それに近いものを考え出そうとしていたのだと思いいたることになりました。 3.科学本来の使命 ― 神の創られた世界を証拠だてること ニュートンとして、私が業績を遺(のこ)したことは数多くあります。まず、光について光学的な発見をしましたし、また天文学においても功績を遺しましたし、数学上の発見もいたしました。それらは、近代科学の祖といわれるのに十分なだけの業積であったと思います。もちろん、私が考えついた時空間のあり方は、古典力学空間といわれるような、古典的なものであって、やがてアインシュタインによって、私の空間論は変更を余儀なくされていったわけですが、アインシュタインがそのように、私の理論を変えていった背景には、実在界において私自身が彼を指導していたということもあります。 ものごとは、発展においては、いつも基礎がいるのであり、その基礎が固まることによって、これに手を加え、さらに発展させていくことがだいじです。私たちの目には、宇宙の法則と言われても、何も映りませんが、それを数式化し、そして検証できるかたちでの法則とすることは、たいへん難しいことであります。この宇宙を見、この世界を見て、それを定式化するという行為自体が、ひじょうに霊的な仕事であるといっても過言ではないでしょう。 現に私自身、神というものは生前からずいぶん信じていました。これは、私以外のアインシュタインやエジソンたちも同様であったと思います。真に科学というものに目覚めたときに、神というものをなしにして語ることはできないのです。この宇宙を見れば見るほど、研究すればするほど、この世界が被造物、すなわち造られた存在であるということに気づくようになるのです。どう見ても造られた存在であるのです。 人間の体一つとってみてもそうです。人間の体の機能を知れば知るほど、これが偶然にできるだろうか、ということです。未来においては、さまざまなロボットが開発されていくでしょうが、それに先立って、人間というものが、いかに高度な機械となっているか、これに驚かざるをえません。これは、はるかなる昔に、まるでロボットでも組み立てるように、人体というものを設計した人がいたに違いないと思わせるのに十分であります。それは、人間の体があまりにも機能的にできすぎているということなのです。あまりにも合理的にできすぎているということなのです。 本来であれば、人間は自分の体の内側を覗(のぞ)くことはできません。ちょうど車の内部構造に似て、車の運転手は車を買って運転はできても、車の機械そのものを組み立てることはできません。同じように、人体としての自分の体を使うことはできても、それを組み立てることはできないでいるのが人間です。 自分でさえ、自分の体がどのようにでき上がり、どのようにコントロールされているのかをわからず、しかして、自分のまたコピー版を子孫として遺すことができる。これはまことに不思議なことであり、人類というものが高度な意味でのロボットでもあることが明らかなのであります。 それは、人類というものは神の目的実現のための肉体を持ったロボットである、というふうに言ってもよいのではないかと思います。この肉体を持ったロボットは自分自身で自分の体をどう造り変えることもできないにもかかわらず、自分の存在を天下唯我独尊と考え、そして他の存在同様に造られたものであるということを、無視しているのです。 今、私はこちらの世界において、科学の裏にあるもの、科学の奥にあるものを研究しておりますが、考えれば考えるほどそれは複雑で難しいものを含んでいると言えましょう。ただ本来の科学の目的とは何であるかというと、それは私が『プリンキピア』という書物にも書いたように、大自然のなかに、あるいは大宇宙のなかに隠された神の法則を発見することであったと思うのです。神の隠された法則を、どのようにして日のもとに置くか、これが科学の使命であったのです。 したがって、科学の使命とは、そもそも神を裁くことではなく、神の創られた世界を証拠だてること、この世界が神によって創られたということを証明すること、これが科学の本来の任務であったのです。 4.科学と宗教の対立を超えて ところが、この本来の任務は、なぜかすり替えられていくようになったと思います。どのように、すり替えられたか。そのすり替えは、実験的な考え方から出ているように思います。経験できるものこそがすべてであるという考え、それと理性によって確信できるもののみを学問の対象とし、理性によって確信できないものは、これは学問の対象外にするという姿勢です。 特に、この理性によって世界を二つに分けて考える考え方は、カントによって推奨されたことでした。カント自身は超自然的な事象、霊的な世界の存在そのものを否定するには至りませんでしたが、少なくとも学問的対象にするには忍びない世界であるということを考え、あくまでも学問的・哲学的探究のプロセスは、これは考えて、考え抜かれて、とことん抽出された理論、あるいは理念でもって構成された世界であるべきであって、これが世人の理解を超えたもので成り立ってはならないと考えてのことのようです。 このカントの思想は、後に大きく影響を残し、哲学のみならず自然科学においても、強烈なインパクトを残したと言えましょう。この意味において、宗教を死に追いやったのは、このカントであると言っても過言ではないでしょう。 このカント的考え方、不可知論を学問の対象のかなたに置いた考え方が、やがて宗教の没落を生んでいったと言えましょう。それはカント自身の責任ではなかったかもしれませんが、彼の個人的認識の範囲に限界があったという事実は、後の多くの人びとをして、あのカントでさえそうしたのだから、我らもそれに学ばねばならないとさせたのだと思います。 この点、私は自然科学の目的のなかに、神の探究ということを明確に考えていたのでありますが、やがて科学者の運命も同じ道筋をたどるようになりました。 これは、一種の反動であると言ってよいでしょう。中世ヨーロッパにおいては、キリスト教神学が全盛期であって、そして猛威と権力とを振るっておりました。ガリレオの事件を見てもそう、コペルニクスの事件を見てもそう、ケプラーを見てもそうですが、教会の決めた教義、ドグマこそがすべてであって、これに反するようないかなる学問的発見も許容されない。また、それをあえて発表するさいには死を覚悟せねばならない。こう考えられていたわけです。 あのガリレオをして、死の恐怖に震えさせたこの教会の力、ケプラーをして震え上がらせた教会の力。たとえば、地動説という学説一つをとってもそうです。地動説を見抜いていた人は紀元前何千年の昔にもおりました。太陽が動いているのではなく、明らかに地球が動いていると考えていた人たちは、教千年の昔からいたのです。しかし、それが科学史において認められるには、たいへんな犠牲を払うことになりました。太陽が地球のまわりを、また星が地球のまわりを廻っているのではなく、地球が回転しているという考えは、中世的教義からまったく無視され、そしてそうした見解を発表した学者は、嘲笑を浴び、また死の危険にさらされました。 しかし結果はどうであったか。地球が丸いことも証明され、また地球が太陽のまわりを回転しているということ、また地球自体が自転しているということも発見されました。これは大きな事実であったと思います。これによって、神学的ドグマが一気に権威を失墜し、科学万能に弾みがついたのだと言えましょう。 このときの中世的圧力を跳ね返したという実績が、その後の流れのなかで宗教を裏側に追いやっていく力となったのであり、これはある意味で大きな作用・反作用の法則のもとにあったと言わねばなりません。 したがって、宗教人たちも、今、ただその存在の不幸を嘆くではなく、その環境の悪しきを嘆くではなく、自分たちの過去の無知な行為が、科学によって報復を受けているのだと思わなければなりません。それは、科学を侮辱した罪でありましょう。 そもそも、イエス・キリストは地球は自転していないとも、地球は公転していないとも何も語っていないわけですが、後世のスコラ哲学者たちが勝手なことを考え出しているわけであって、それは神の権威とは何のかかわりもないことであったわけなのです。それゆえに、人間が空想や想像によってつくりあげてしまった学問体系が、どれほど人間の目を覆(おお)い、その前途を狂わすかということを十分知らなければなりません。 遂に科学は科学で驕(おご)ってしまって、宗数的真理に目をつぶっているというのが現実であろうと思います。 5.今後、神の創られた多次元世界の究明に向かう科学 私はこの第1章における総論として、是が非とも語っておかなければならないと思うことは、今後、神という概念を、また神の創った霊界という世界を、これを念頭に置かない科学というものは存在することができなくなっていくということです。 今後は、科学の対象は霊界に向かうべきであり、霊界の奥にある神そのものに向かうべきであると思います。今、物理学においては素粒子理論で持ち切りのようでありますが、素粒子の奥をきわめていくと、物質とはそもそも何であるのか、物質の誕生とは何であるのか、ということに思いをいたさないわけにはいかなくなります。 それは有って無きがごとしというようなものです。まったく面積も体積もないものが、突如、三次元世界にその位置を得る、そうして存在感をアピールするにいたる。これはまさしく、創造です。創り出されたという観がします。この素粒子の世界を探究すれば、探究するほど、やがて多くの科学者は神というものの存在に行き当たるようになってくるでしょう。 また数学的にも、異次元世界の存在が証明されていくでしょう。それは、私にはごくごく当然のことのように思われます。というのも、私自身そうしたことを証明するために、実在世界からのインスピレーションの供給を仕事としているからであります。 どうしても、どうしても言っておかなければならないことは、創造の秘密ということです。科学者たちは創造ということを誤解し始めたように思えるのです。この地上にある、いろいろな知識の異質な組み合わせを、創造だと思う人がたいへん増えてきました。嘆(なげ)かわしいことです。創造の本質とは、この世的なものではない、異次元世界から天降ってくる啓示です。異次元世界から天降ってくるインスピレーションです。 このインスピレーションを受けるためには、自分自身の知性や理性だけで考え方を縛ってはならないのであって、どこかで宗教家の説くような、幼な子のような心を持っていなければなりません。幼な子のごとき純粋で、そして無理のない考えを持ち続けることによってはじめて次つぎと着想が湧いてくるのです。私自身の発明、発見も二十代の三年ほどの間ですが、ペスト流行の折に田舎に疎開していたときに得たアイデアによっています。私はそうした結論をまず最初に得て、あとはそれを証明するために努力しただけのことです。その結論そのものは、すでに天上界からインスピレーションとして与えられていました。 今後の科学は、このインスピレーション、霊天上界の啓示による創造という観点を忘れては、一歩も前進することはないでしょう。それは科学の探究する世界そのものが、そうした異次元的世界となってきているからなのです。宇宙船技術についても、異次元世界の解明なくして、進むことはないでしょう。地上に数多く飛来しているUFOの存在、その機能も、異次元世界というものを知らずして解明されることはないでしょう。 科学者よ、心を空しくして新たな方途につけ。そこにニュートンが用意した科学の発祥の精神が横たわっているということを知ってほしい。
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《清楚の本質 二階堂嵐》 キャラクターカード コスト6/赤/CP6000/ランク2 特徴なし ボーナスアイコン RANK+1 [コネクトアタック(5)] 自分の「二階堂嵐」のアタックで、相手のキャラを退場させた場合、 相手に1点のダメージを与える あたしの愛人になれば、今夜のうちに卒業だぜぇ? お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっで登場する赤色・特徴を持たない二階堂嵐。 コネクトアタック5と、二階堂嵐のアタックで相手キャラを退場させた場合、相手に1点ダメージを与えるテキストを持つ。 2013年07月18日付の今日の1枚として公開された。 関連項目 二階堂嵐 収録 お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ 01-057 SR